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2008年5月 5日 (月)

家と施設

博士課程のゼミのあと、以下の記事を思い出しました。


家のちから、生きる場

「どれ」そう言ってAさん(72)が「家」の庭に生い茂った雑草を抜き始めたとき、職員たちは面食らった。草花と雑草を見分け、雑草だけ抜いていく。白菜と大根を作ろうと提案もした。
 痴呆の症状が出ているAさんは、社会福祉法人東北せんだんの杜が仙台市で営む、定員50名の特別養護老人ホーム「リベラ荘」に滞在している。
 そこからそう遠くない住宅地にある2階建ての「家」は7月に借り上げられた。朝9時過ぎにAさんら痴呆のある人4,5人が職員2人と連れだって「家」に行き、夕方まで過ごす。
 「リベラ荘」にいる時のAさんは、うつらうつらしていることが多い。歩くとよく転ぶ。ところが、「家」に来ると、足取りがしっかりし、庭仕事に精をを出す。
 痴呆のある女性たちも買い物に行き、昼ご飯の準備を手伝うことがある。米をとぎ、手首でさっと水加減を量って職員を感心させる。
 施設と「家」とでは、だれもが別人のようになる。音、においなど「家」にまつわるすべてが、過去に培った暮らしの技術や経験、能力を呼び覚まさせるのだろう。
 「家」に通うようになってお年寄りを見る目が変わった、と若い男性職員はうちあけた。施設にいるときは、「なにもできない人」「問題行動のある人」と考えがちだった。「家」に来てからの2ヶ月は、「あの人はこんなことができる」「あんなこともできる」という発見の連続だった。
 「家」の玄関の戸は開けっ放しになっている。昼ご飯づくりのボランティアに来る人もいれば、おしゃべりに立ち寄る人もいる。近所の人が入れ代わり立ち代わりのぞいていく。家族が訪れる回数も増えた。
 「リベラ荘」の周りには、現在、こういう民家が5軒あり、泊まり込む人も含めて、お年寄りがゆったりと暮らしている。
 年を重ね、自立がむずかしくなったとき、たいていの人は自宅で介護を受けるか、施設に入るか、の選択を迫られる。
 ほとんどの施設は人里離れたところにある。集団生活にもしばられる。自宅での介護には家族の負担が伴う。
 「リベラ荘」の5軒の「家」は、自宅でもない、施設でもない、もう一つの在宅の試みといえる。「リベラ荘」を太陽にたとえれば、「家」はその周りをまわる五つの星だ。太陽からは人材や介護のノウハウなどの養分がたっぷり「家」にそそがれる。そこで数人づつのお年寄りが、介護や福祉専門の職員と暮らしをともにする。
 昼間だけ使う人、短期間泊まる人、ずっと住む人、利用の仕方はさまざまあっていいと思う。
 そんな「家」が全国津々浦々にできたらどんなにいいだろう。安心していられる場所こそ、人は輝く。


2002.9.15 朝日新聞社説

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