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2009年1月25日 (日)

志免南小作業所・ふれあいの部屋

1/22は志免南小学校へ。

志免町立志免南小学校では、空き教室を利用して「知的障がい者共同作業所・ふれあいの部屋」が設置されている。およそ10年前の発足当時は、全国初の試み。

作業所を運営する、柚の木学園と志免南小学校との間での連携が以前からあったことはいうまでもない。学校側では、作業所との交流について強制や勧奨はしておらず、いくつかの校内行事での交流が定期的に行われているだけだ。それでも、休み時間をなどには、子どもたちとの自発的な交流が生まれている。学校側は福祉教育の一貫と位置づけ、作業所にも通常の作業所にはない活気が生まれる。

確かに、子どもたちの賑やかな声は場を和ませる。熱心で明るい指導員の方々も魅力的な人達だ。働く人達との関係も見事に培われている。横断的・融合的・連動的な施設計画を標榜している我々の指向にも一致する。しかし、本当に「教室」でいいのか。

知的な障がいを持つ人達は、いわゆる健常者と違い自分に素直なので、表向きの矯正(「あるべき生活の姿」とそれに対応した施設=建築)に従うといった、こざかしいことはできない。不本意な空間に対しては不本意と正直に対応してしまうはずで、設計者の浅はかなもくろみは必ず失敗する。彼らにとっての建築は、まさに字義通り環境のひとつなのであって、彼らには生活とその容器というような二分法は存在しない。かくして、通常の設計のやりかたでは通用しないということになる。

このような場では、建築を生活の容器などとみなす通常の考え方・二分法の、その根底に隠れている決定的な誤謬が、障がいを持つ人達の極めて素朴で率直な生活行動により露呈してしまうのである。

いわゆる健常者は、率直な感情・感性を押し殺してこの二分法に耐え、慣れてしまうことができるから、設計者はそれに甘えてしてしまっている。が、いかなる建築においても「生活の容器」などという発想法は根本的に誤りなのである。

教室でいいのか。あらためて大事なことを突きつけられた気がする。

メッセージカード(紙漉で製作されたもの)を頂きました!

Shime

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