Graduation 2009
修了・卒業おめでとう!
いま、綿密に検討する必要があることは、道具の性格とその道具を用いている社会において支配的な正義の意味との相関関係です。
わたしは、専門的知識に基づいて権利が確定されるような社会では自由が失われるということを知らなければなりませんでした。 そこでわたしは、次のような選択を秤にかける必要にせまられたのです。 つまり、{一方に}商品生産を増大させるための新しい道具と、{他方に}同様に近代的ではあっても、その使用において価値が生み出されることを可能にするような道具とのあいだの選択です。 また、{一方に}商品を大量生産する権利と、{他方に}人々が創造的に自己を表現し、それによって自己を充足させることができるような自由とのあいだの選択です。 さらにはまた、{一方に}雇用されて俸給生活をおくること、{他方に}有用な(使用の喜びにあふれた)非雇用生活とのあいだの選択です。{一方で}他律的に管理されること{他方で}自力で活動することのあいだのこれらの選択のどの次元をとっても、わたしは、後のほうの選択肢に固執することをわれわれに可能にするようなことばを見つけだすことの困難さを感じました。 わたしは、わたしの読者として呼びかけている人々と同じく、財、権利、仕事に対しては、根本的に公平な接近がなされなければならないと心底思っています。 したがって、正義のこうした面を求めるわれわれの闘いについて、ここで力説することはほとんどないでしょう。
それよりもはるかに重要で、しかも困難であると思われるのは、そうした闘いと補いあって一つの全体をかたちづくるようなものについて論じることです。 それは「ともに生きること conviviality」のための戦略です。convivialityということばをわたしは、「ともに生きるための道具」の中で述べたような特別な意味で用います。つまり、そのことばは、使用=価値をつくりだす自由の公平な配分を求め、そうした自由のための道具を求める闘いを意味しています。
Ivan Illich, Silence is a Commons, 1982
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